
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
北九州を後にした私は、大阪へは戻らず、実家の長崎へ帰ったが、体調が優れず、再びセントマザー医院を訪れ、結局、入院することになった。
夢にまで見たその言葉は、入院から四日目の朝、先生の口からあっさりと出た。
「小野田さん、妊娠反応出てたよ」
「え?私、妊娠してるんですか!?」
診察室のベッドから思わず飛び起きた。
「ほんとに・・・?私が?」
にこやかに先生は頷いている。
(夢じゃないんだ・・・)
両手で顔を覆い、「わぁー」と大きな声を出して子どものように私は泣いた。看護師さんがティッシュで私の涙を拭いてくれた。そうだ、涙は嬉しい時にも出るものだった。
「まだ心配なこともあるから・・・」と、先生の説明が続く間も、私の嬉し涙は止まらない。診察室を出ると、はやる気持ちを押さえるように電話を取り、和彦に伝えた。
「そう。そうか」
私の予想を裏切り、少しも驚かない。
「何よ、もっと喜んでよ!」
「・・・うまく行き過ぎて、恐いねん」
「期待せんとこな」と言って、私を送り出した和彦は、本当に、気持ちを押さえていたらしかった。「まだ手放しで喜んだらあかんで」と諭され、やっと私も少し冷静になった。しかし、顔は勝手にほころぶ。私はそれまで決して見ようとしなかった新生児室をのぞいてみた。病院から赤ちゃんを盗む夢を見てから、私は赤ちゃんの顔を見ることさえできなくなっていた。生まれたての赤ちゃんが、何より美しいことを、私は見なくても知っていた。ガラスの向こうの赤ちゃん達は、大変な旅を終えた後のように、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。私の赤ちゃんも、このガラスの向こうに眠る日がくるのだろうか。私にはまるで国境のように遠かったこの一枚のガラス。手に当るひんやりとした感覚がふいに私を不安にさせた。が、すぐに思いなおす。私は思いきり手を差しのべたらいいのだ。この手に抱く命のために。
次の週、和彦は大阪から私の見舞いに来た。心配しつつも、やはり笑顔がこぼれている。私は和彦に尋ねた。
「今日、何の日か分かる?」
「11月21日か。さぁ。何の日?」
「ほら、A病院で、初めて、あなたに精子が無いって分かった日」
「あ!あれから1年か!」
ちょうど、1年だった。たったの1年なのかもしれないが、私にとっては、いくつもの冬を越したような月日だった。「0」という数字の重みに、今にも押しつぶされそうになりながら、這うようにして今日まで来た。そんな私が、妊娠しているなんて。信じられない。いや、違う。ずっと信じていたではないか。心の、奥の方から、聴こえてくる声に、もうずっと前から、私は気がついていた。
1年前のこの日。「精子は、見当たりませんでした」と告げられ、遠のく意識の中で、初めて聴こえたあの声。「原因が分かったのなら、なんとかなる」。そんなことをちらっとでも考えた自分に怒りさえ覚えた。手術をしても、精子が一つも見つからなかったときも、その声は聴こえた。「それでも、なんとかなる」。どうしてだろうか。悲観的で、弱弱しい今の自分から出るとはとても思えないその声。一人部屋でしくしく泣いている時も、聴こえることがあった。「なんとかなるから」。すぐに、どうにもならないわよ、と否定しながらも、その声が聴こえると、私は泣くのを止めてしまうのだった。
私は、そっと下腹に手を当てた。
「あなた、だったんだね」
声の主は、私の赤ちゃんだ。私の赤ちゃんが、ずっと、私を励ましてくれていたのだ。「ママ、頑張れ。きっと会えるから、会えるから」と、私に伝えていたのだ。その声に背中を押され、私はここまで歩いて来た。
下腹に当てた掌がジンとして、温かくなった。胸の中にぽっと、灯りがともった。
翌年の7月7日、予定より3週間早く、私は元気な女の子を出産した。窓から見える空がいつもより青く、まぶしかった。初めて我が子を抱いた時、私はそっと声を掛けた。
「やっと、会えたね」
手足をぎゅっと縮こませ、苦しそうに、右目だけを開けて、私をちらっと見た。
「ね。会えたでしょ」
そう、言われた気がした。静かに、涙が流れ落ちた。出産したら感激で、泣きじゃくるのだろうかと思っていたが、私に訪れたのは今まで味わったことのないほどの「安堵」だった。やっと、やっと手にした我が子。誰のものでもない、私の子どもを、今日から、私はこの手に抱けるのだ。そう思うと、心底ほっとして、私は腰が抜けてしまった。本当に、二日ほどは、一歩も歩けなかった。看護師さんに「これからが大変なのよ」とからかわれ、私も照れ笑いを返していたが、私はしばらく、この心地よい安堵の中に身体を預けていたかった。そして、感謝していたかった。神様が、私の人生に、こんな一幕を用意してくださっていたことを。
「奈津子、ありがとう。ようがんばったな。ありがとう」
和彦は、細い目をさらに細くし、我が子と対面した。抱く手が少し震えている。
「お前、ホンマに、ホンマによう、生まれてきたなぁ。お前のおかげで、俺、パパやで」
自分の顔に指を指し、和彦は繰り返す。
「ええか、これがお前のパパやで」
私は和彦に言った。この子はちゃんと、私たちがパパとママだと分かっている。トンネルの向こうで、ずっと、私たちを呼んでいたのだから。私たちが来るのを、ずっと、待っていてくれたのだから。
その声を信じて、私は歩き続けた。その道のりはいつの間にか、私を一人の人間として強くした。私は子どもを産んだから母親になったのではない。子供が欲しいと願ったそのときから、心の一部はすでに母親だった。自分の中に芽生えた母性を、痛いくらい実感していた。それは私を苦しめたが、それこそが私に力をくれたのだ。生きていくことそのものが人を強くする。和彦も、同じ道のりの中で、父親としての自覚が育っていった。また、それは私たちが「夫婦」という「家族」になっていく道のりでもあったのだ。
力強い泣き声が部屋全体に響きわたった。始まりだった。新たな家族としての、始まりだった。この子に、何から伝えようか。まず、あなたが生まれてくれて、私たちはどれほど嬉しかったか。それを伝えよう。そして、私たちはあなたとこうして会えたことを、とても誇りに思っていることも。
さぁ、今度は、私たちがあなたの背中を見守るから。歩き出してごらん。一歩づつ。
完 「0(ゼロ)の行方」 小野田 奈津子






