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最終話   これがお前のパパやで!

北九州を後にした私は、大阪へは戻らず、実家の長崎へ帰ったが、体調が優れず、再びセントマザー医院を訪れ、結局、入院することになった。
夢にまで見たその言葉は、入院から四日目の朝、先生の口からあっさりと出た。
「小野田さん、妊娠反応出てたよ」
「え?私、妊娠してるんですか!?」
診察室のベッドから思わず飛び起きた。
「ほんとに・・・?私が?」
にこやかに先生は頷いている。
(夢じゃないんだ・・・)
両手で顔を覆い、「わぁー」と大きな声を出して子どものように私は泣いた。看護師さんがティッシュで私の涙を拭いてくれた。そうだ、涙は嬉しい時にも出るものだった。
「まだ心配なこともあるから・・・」と、先生の説明が続く間も、私の嬉し涙は止まらない。診察室を出ると、はやる気持ちを押さえるように電話を取り、和彦に伝えた。
「そう。そうか」
私の予想を裏切り、少しも驚かない。
「何よ、もっと喜んでよ!」
「・・・うまく行き過ぎて、恐いねん」
「期待せんとこな」と言って、私を送り出した和彦は、本当に、気持ちを押さえていたらしかった。「まだ手放しで喜んだらあかんで」と諭され、やっと私も少し冷静になった。しかし、顔は勝手にほころぶ。私はそれまで決して見ようとしなかった新生児室をのぞいてみた。病院から赤ちゃんを盗む夢を見てから、私は赤ちゃんの顔を見ることさえできなくなっていた。生まれたての赤ちゃんが、何より美しいことを、私は見なくても知っていた。ガラスの向こうの赤ちゃん達は、大変な旅を終えた後のように、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。私の赤ちゃんも、このガラスの向こうに眠る日がくるのだろうか。私にはまるで国境のように遠かったこの一枚のガラス。手に当るひんやりとした感覚がふいに私を不安にさせた。が、すぐに思いなおす。私は思いきり手を差しのべたらいいのだ。この手に抱く命のために。
次の週、和彦は大阪から私の見舞いに来た。心配しつつも、やはり笑顔がこぼれている。私は和彦に尋ねた。
「今日、何の日か分かる?」
「11月21日か。さぁ。何の日?」
「ほら、A病院で、初めて、あなたに精子が無いって分かった日」
「あ!あれから1年か!」
ちょうど、1年だった。たったの1年なのかもしれないが、私にとっては、いくつもの冬を越したような月日だった。「0」という数字の重みに、今にも押しつぶされそうになりながら、這うようにして今日まで来た。そんな私が、妊娠しているなんて。信じられない。いや、違う。ずっと信じていたではないか。心の、奥の方から、聴こえてくる声に、もうずっと前から、私は気がついていた。
1年前のこの日。「精子は、見当たりませんでした」と告げられ、遠のく意識の中で、初めて聴こえたあの声。「原因が分かったのなら、なんとかなる」。そんなことをちらっとでも考えた自分に怒りさえ覚えた。手術をしても、精子が一つも見つからなかったときも、その声は聴こえた。「それでも、なんとかなる」。どうしてだろうか。悲観的で、弱弱しい今の自分から出るとはとても思えないその声。一人部屋でしくしく泣いている時も、聴こえることがあった。「なんとかなるから」。すぐに、どうにもならないわよ、と否定しながらも、その声が聴こえると、私は泣くのを止めてしまうのだった。
私は、そっと下腹に手を当てた。
「あなた、だったんだね」
声の主は、私の赤ちゃんだ。私の赤ちゃんが、ずっと、私を励ましてくれていたのだ。「ママ、頑張れ。きっと会えるから、会えるから」と、私に伝えていたのだ。その声に背中を押され、私はここまで歩いて来た。
下腹に当てた掌がジンとして、温かくなった。胸の中にぽっと、灯りがともった。
翌年の7月7日、予定より3週間早く、私は元気な女の子を出産した。窓から見える空がいつもより青く、まぶしかった。初めて我が子を抱いた時、私はそっと声を掛けた。
「やっと、会えたね」
手足をぎゅっと縮こませ、苦しそうに、右目だけを開けて、私をちらっと見た。
「ね。会えたでしょ」
そう、言われた気がした。静かに、涙が流れ落ちた。出産したら感激で、泣きじゃくるのだろうかと思っていたが、私に訪れたのは今まで味わったことのないほどの「安堵」だった。やっと、やっと手にした我が子。誰のものでもない、私の子どもを、今日から、私はこの手に抱けるのだ。そう思うと、心底ほっとして、私は腰が抜けてしまった。本当に、二日ほどは、一歩も歩けなかった。看護師さんに「これからが大変なのよ」とからかわれ、私も照れ笑いを返していたが、私はしばらく、この心地よい安堵の中に身体を預けていたかった。そして、感謝していたかった。神様が、私の人生に、こんな一幕を用意してくださっていたことを。
「奈津子、ありがとう。ようがんばったな。ありがとう」
和彦は、細い目をさらに細くし、我が子と対面した。抱く手が少し震えている。
「お前、ホンマに、ホンマによう、生まれてきたなぁ。お前のおかげで、俺、パパやで」
自分の顔に指を指し、和彦は繰り返す。
「ええか、これがお前のパパやで」
私は和彦に言った。この子はちゃんと、私たちがパパとママだと分かっている。トンネルの向こうで、ずっと、私たちを呼んでいたのだから。私たちが来るのを、ずっと、待っていてくれたのだから。
その声を信じて、私は歩き続けた。その道のりはいつの間にか、私を一人の人間として強くした。私は子どもを産んだから母親になったのではない。子供が欲しいと願ったそのときから、心の一部はすでに母親だった。自分の中に芽生えた母性を、痛いくらい実感していた。それは私を苦しめたが、それこそが私に力をくれたのだ。生きていくことそのものが人を強くする。和彦も、同じ道のりの中で、父親としての自覚が育っていった。また、それは私たちが「夫婦」という「家族」になっていく道のりでもあったのだ。
力強い泣き声が部屋全体に響きわたった。始まりだった。新たな家族としての、始まりだった。この子に、何から伝えようか。まず、あなたが生まれてくれて、私たちはどれほど嬉しかったか。それを伝えよう。そして、私たちはあなたとこうして会えたことを、とても誇りに思っていることも。
さぁ、今度は、私たちがあなたの背中を見守るから。歩き出してごらん。一歩づつ。

完 「0(ゼロ)の行方」 小野田  奈津子

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