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第16話   セントマザーとの出会い

10月の半ば、地図を片手に、私たちは北九州の小さな駅に降り立った。本を頼りに、著者である田中院長のセントマザー産婦人科医院で手術を受けることにしたのだ。
和彦が再手術を拒んでから、私は彼に内緒で田中院長に手紙を書いた。セントマザー医院では、和彦がひどく痛がった、睾丸組織検査の手術内容が、他の病院と違うというので、訊いてみたかったのだ。院長はすぐに直筆の手紙と多くの資料を送ってくださった。「睾丸組織検査手術は、これまでかなりの数を行っており、『痛み』に対しても御心配の無いように」と、丁寧に書かれてある。和彦が手術を決心した時、私はこれらを見せ、セントマザー医院へ行くことが決定したのだ。
和彦が有休を取り、平日に来たのだが、広いロビーには、多くの女性患者に混じり、私たちのように夫婦の姿もとても多かった。
予約の段階で、手術が決まっていたので、和彦は昨晩九時から煙草は無論、飲み物さえも口にしていない。イライラするらしく、貧乏揺すりがひどい。それに二人とも、前回の手術のことが思い出されて仕方ない。彼の何度目かのため息の後、診察室へ入った。本で見た、田中院長の顔がそこにあった。
「覚えていますよ、このお手紙」
低く、よく通る声だった。私の手紙がカルテに添えられてあった。
「奥さん、苦労されたね。よく、がんばってこられたね」
診察の説明かと思って構えていた私は、ふっと体の力が抜けた。院長は、ベッドに寝かされた和彦にも声を掛けた。
「ご主人も、大変だったね。これはね、男性にとって、とても辛いことだからね」
「・・・はい」と、和彦が頷いた。
(分かってくれる人がいた!)
熱い思いが込み上げてきた。思えば、診察でこれまでのことをねぎらってもらったのは、これが初めてだった。
院長は、テキパキと手術の内容を説明し、看護師と、1人の医師を呼び、指示した。
「ヨシ!がんばりますからね!」
「はい!宜しくお願いします!」
力強いその声につられるように、私は返事をした。和彦は、顔を引きつらせながら、手術前の検査を受けに処置室へ入って行った。
もうこれ以上和彦を引っぱり回して手術を受けさせることは出来ない。和彦を見送りながら、私は思った。これが、最後のチャンスだ。ここは、私達の、終着駅なのだ。
手術の結果、今度もまた、和彦に精子は認められなかった。しかし、後期精子細胞が凍結された。つまり、以前頭を整理するために作った「第三希望」に引っかかったということだった。記憶の中で、私はすぐにパラパラと本のページをめくった。「最新の男性不妊治療」というところだ。不安が波打つ。だが、とにかくこれで念願の顕微授精が受けられるのだ。期待と不安とが体中に渦巻いた。
和彦の手術から1ヵ月後、私は顕微授精を受けるための準備に入った。セントマザー医院から紹介された大阪のH産婦人科医院で、排卵誘発剤の注射を受け始めたのだ。同時に、1日3回、点鼻薬を使用した。この薬は、排卵誘発剤で作った卵子が、病院での採卵を前に排卵しないよう、止める役割がある。時間通りに使用しないと効果が無いと言うので、緊張した。朝6時、昼2時、夜10時と決めたのはいいが、昼、バイト先では仕事の真っ最中の時間だ。仕方なく、トイレで使った。
H産婦人科で、「卵子がちょうどいい大きさになりましたよ」と、告げられ、いよいよセントマザー医院へ向かうこととなった。
和彦の精子細胞は凍結されているので、セントマザー医院へは、私1人で行く。医院のすぐ近くの旅館を予約した。採卵と、顕微授精(運が良ければ)を受けるので、3泊の予定だった。
バイト先に、1週間ほど休みをもらい、荷物を整理していると、なんだか落ち着かない。今まで、ただ待つだけだったのに、和彦が再手術を決断してから、急にコトが進み始めた。私の心が追いつかないほどの速さだ。大きな波に乗せられているようだった。
出発の日、「行って来るね」と声を掛けると、和彦は、「おう。でも、期待せんとこな」と答えた。彼も、採れたのが精子でなく、精子細胞であることを気にしていた。本当に、受精するのだろうか。当たり前のことだが、受精しない限り、妊娠はしないのだ。学校の理科の時間、顕微鏡で覗いた植物の細胞は、ずいぶんと弱々しくて、頼りなげだった様に思うのだが、和彦の精子細胞は、その力を振り絞ってくれるだろうか。

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