
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
初夏と言っていいほどの晴天が続いていた。バイト先の教室でも、子どもたちのTシャツ姿が目立つ。薄着になると、子供たちはどんどん活発になる。はしゃぐ子らを追いかけながら、私は、少しだけ、自分の気持ちが落ち着いたことに気がついていた。
私は初めて、本気で彼の立場になって考えた。自分に、不妊の原因があるという苦しみ。男としての不甲斐なさ。そして、私という妻を失うかもしれないという不安。考えてみれば、彼の苦しみは、私のそれとは違う。同じ苦しみを共有しているはずだと思っていたが、それは微妙に違っていたのだ。
和彦の気持ちを受け止めてみよう。彼の心が落ち着くまで、待ってみよう。それが今の私がやるべきことなのだ、きっと。
私は、和彦の前で、手術のことも、子供のことも言うのを止めた。「このままどうなるのだろう」という不安が常に心をよぎるので、それは私にとって決して簡単なことではないのだが、そんな気持ちを振り切り、とにかく待つことに決めた。
気分転換を兼ねて、押し花教室に通い始めた。専用の道具を使うと、どんな花でも、二、三日できれいな押し花になる。出来上がった花や葉で、絵をデザインするのだ。私は、これに夢中になった。花屋はもちろん、道端の草花にも目を止める。植物が、話し掛けてくるようだった。
バイト先にも新人が入り、教えることが増え、忙しくなった。家事はかろうじてやる、という程度しか出来なかったが、仕事はよくやった。
泣きたくなったら、押し花のデザインを考えて気を紛らす。寂しくなったら、最新のビデオを借りに行く。どうしようもなく哀しくなったら、父に電話した。とにかく、後ろを向かない。もう、泣かないのだ、と言い聞かせた。ほんの少しでもいい。今度こそ、本当に強くなりたい。
朝から気温が上がり、蝉の声で起こされる。夏は私の住む町にも、しっかりとその姿をあらわしていた。
服の袖が短くなったくらいで、特に変わらない日々が続く。ただ、今まで和彦のことばかり気にしていた私は、彼のことよりも、自分について考えることが多くなっていた。
和彦の無精子症が分かってから、私はそれはそれは苦しんだ。親子連れを見ると体が引きちぎられそうになり、これから先、こんなに辛い人生が続くのならいっそ死にたいとさえ思っていた。実際、電車のホームに立つと、足ががくがくと震え出すのだった。和彦と出会う前に好きだった人の夢をみて、心苦しさに泣いたこともある。それは、私が自分だけ人生をリセットしたがっている、何よりの証拠だったからだ。
手術から逃げる和彦を責め続けながら、実は私の方こそ、逃げていた。この現実からも、和彦からも。Kさんの家で、「私が、何したって言うのよ!」と、吐き出した時も、父に、「『あんたとじゃ子どもの出来んとやったら別れる』なんてことは絶対許されない」と言われたときも、本当は、気がついていた。自分の弱さと、醜さに。和彦は、ずっと前から知っていたのだ。私の腰が引けていることを、見抜いていたのだ。
情けなかった。雑誌やテレビの不妊特集に出てくる夫婦は、どちらに原因があっても決して責めたりせず、協力していくのに。
夫婦の結びつきとは、何なのだろう。だいたい私はどうして、こんなに子供が欲しいのだろう。子どもがいなくては、家族でないような気がして、仕方が無かったのだ。では子どもがいれば、相手は彼でなくてもいいのか?まるで青い鳥のように、子どもさえ自分に舞い降りたら、幸せになれると思っているのではないのか?
私には、和彦が必要だ。他の人では、私は幸せになれない。彼でなくてはだめなのだ。夫婦は、家族の始まりではないか。一緒に暮らし、時を重ねることで、お互い、かけがえのない存在になっていく。それが、家族のはずだ。私と和彦も、これからの人生にお互いを必要としている。私は彼と一緒に、子どもを育てたいのだ。彼とだから、子どもが欲しいと私は願うのだ。
心の中に、今までとは違う種類の静寂があった。和彦の心が落ち着くのを待つ時間は、私自身を見つめ直す時間となっていった。
不安を打ち消して、私は自分に言い聞かせる。いつかきっと、この辛い日々を振り返って、「あんなこともあったね」と言える日が来る。たとえどんな結果が待っていたとしても。この胸の苦しみを、ほろ苦い酒のように、和彦と二人で味わえる日が来る。きっと来る。そのために今を生きるのだ。そう信じて、今日を生きるのだ。






