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第14話   逃げているのは私だ

初夏と言っていいほどの晴天が続いていた。バイト先の教室でも、子どもたちのTシャツ姿が目立つ。薄着になると、子供たちはどんどん活発になる。はしゃぐ子らを追いかけながら、私は、少しだけ、自分の気持ちが落ち着いたことに気がついていた。
私は初めて、本気で彼の立場になって考えた。自分に、不妊の原因があるという苦しみ。男としての不甲斐なさ。そして、私という妻を失うかもしれないという不安。考えてみれば、彼の苦しみは、私のそれとは違う。同じ苦しみを共有しているはずだと思っていたが、それは微妙に違っていたのだ。
和彦の気持ちを受け止めてみよう。彼の心が落ち着くまで、待ってみよう。それが今の私がやるべきことなのだ、きっと。
私は、和彦の前で、手術のことも、子供のことも言うのを止めた。「このままどうなるのだろう」という不安が常に心をよぎるので、それは私にとって決して簡単なことではないのだが、そんな気持ちを振り切り、とにかく待つことに決めた。
気分転換を兼ねて、押し花教室に通い始めた。専用の道具を使うと、どんな花でも、二、三日できれいな押し花になる。出来上がった花や葉で、絵をデザインするのだ。私は、これに夢中になった。花屋はもちろん、道端の草花にも目を止める。植物が、話し掛けてくるようだった。
バイト先にも新人が入り、教えることが増え、忙しくなった。家事はかろうじてやる、という程度しか出来なかったが、仕事はよくやった。
泣きたくなったら、押し花のデザインを考えて気を紛らす。寂しくなったら、最新のビデオを借りに行く。どうしようもなく哀しくなったら、父に電話した。とにかく、後ろを向かない。もう、泣かないのだ、と言い聞かせた。ほんの少しでもいい。今度こそ、本当に強くなりたい。
朝から気温が上がり、蝉の声で起こされる。夏は私の住む町にも、しっかりとその姿をあらわしていた。
服の袖が短くなったくらいで、特に変わらない日々が続く。ただ、今まで和彦のことばかり気にしていた私は、彼のことよりも、自分について考えることが多くなっていた。
和彦の無精子症が分かってから、私はそれはそれは苦しんだ。親子連れを見ると体が引きちぎられそうになり、これから先、こんなに辛い人生が続くのならいっそ死にたいとさえ思っていた。実際、電車のホームに立つと、足ががくがくと震え出すのだった。和彦と出会う前に好きだった人の夢をみて、心苦しさに泣いたこともある。それは、私が自分だけ人生をリセットしたがっている、何よりの証拠だったからだ。
手術から逃げる和彦を責め続けながら、実は私の方こそ、逃げていた。この現実からも、和彦からも。Kさんの家で、「私が、何したって言うのよ!」と、吐き出した時も、父に、「『あんたとじゃ子どもの出来んとやったら別れる』なんてことは絶対許されない」と言われたときも、本当は、気がついていた。自分の弱さと、醜さに。和彦は、ずっと前から知っていたのだ。私の腰が引けていることを、見抜いていたのだ。
情けなかった。雑誌やテレビの不妊特集に出てくる夫婦は、どちらに原因があっても決して責めたりせず、協力していくのに。
夫婦の結びつきとは、何なのだろう。だいたい私はどうして、こんなに子供が欲しいのだろう。子どもがいなくては、家族でないような気がして、仕方が無かったのだ。では子どもがいれば、相手は彼でなくてもいいのか?まるで青い鳥のように、子どもさえ自分に舞い降りたら、幸せになれると思っているのではないのか?
私には、和彦が必要だ。他の人では、私は幸せになれない。彼でなくてはだめなのだ。夫婦は、家族の始まりではないか。一緒に暮らし、時を重ねることで、お互い、かけがえのない存在になっていく。それが、家族のはずだ。私と和彦も、これからの人生にお互いを必要としている。私は彼と一緒に、子どもを育てたいのだ。彼とだから、子どもが欲しいと私は願うのだ。
心の中に、今までとは違う種類の静寂があった。和彦の心が落ち着くのを待つ時間は、私自身を見つめ直す時間となっていった。
不安を打ち消して、私は自分に言い聞かせる。いつかきっと、この辛い日々を振り返って、「あんなこともあったね」と言える日が来る。たとえどんな結果が待っていたとしても。この胸の苦しみを、ほろ苦い酒のように、和彦と二人で味わえる日が来る。きっと来る。そのために今を生きるのだ。そう信じて、今日を生きるのだ。

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