
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
一体、どうしてこうなってしまったのだろう。私と和彦は、一緒に住んではいるものの、同じ部屋にいると息苦しいほど緊張した関係になっていた。一人のとき、私は大抵泣いていた。無気力で、何時間でもボーッとしてしまう。何をどう食べているのか、気がつくと冷蔵庫の中の物がほとんど賞味期限切れ、ということもあった。ただ毎日を、どうして、どうして、と泣きながら繰り返す。
情けなかった。今の私は、土砂降りの中、水溜りに倒れこんでも、身動き一つとる力も無い。他人にどれだけ踏まれようが、何も感じない。小説やドラマの主人公なら、こんな時、決して負けはしないのに。「自らの運命に翻弄されつつも、強い意志で立ち向かう」主人公たち。そんな類の小説を、私は幼い頃から好んで読んだ。大人になれば、自分もそんな強い人になれるものだと信じていた。それがどうだろう。私は、自分の運命にすっかり振り回され、ボロボロでヘトヘトだ。現実は小説と違う。小説には終わりがあるが、現実はずっと続く。日が沈めば朝がくる。生活していかねばならない。月曜が来れば火曜が来る。ごみの日にごみを出し、給料をやりくりし、スーパーで食料品を買う。それが生活。それが生きていくということ。その一つ一つの、重み。
ある朝、いつものように和彦を送り出した後、私は限界を感じた。迷うもう一人の自分を振り払うように受話器を取った。
「お父さん、私。あのね、ずっと言わんかったけど、和彦さん、手術、嫌がっとらすと。もう何回も頼んだけど、嫌って。嫌って。もう私、疲れた。どうしていいか分からん!帰りたか!家に帰りたかぁ」
後は言葉にならなかった。ただ声を上げて私は泣いた。裸足で飛び出してでも、帰りたかった。帰って、両親に会いたい。ただ二人の娘だった頃に戻りたい。そう出来たら!
「そうか。そうやったとか」
私の嗚咽を聞きながら、父は静かにそう繰り返した。
「しばらく、頭を休めときなさい。後は、お父さんたちが考えてやるから。少し、ゆっくりしときなさい」
体の力が抜けていくのが分かった。私はもう、考えることにホトホト疲れていた。これ以上どうしたらいいのか、本当に分らなかった。ただもう、この両肩の荷を下ろしたい。それだけだ。私には重過ぎる。すでに和彦は、私の顔も見ようとしない。どんどん離れていく私たち。もう疲れた。
(後はお父さんたちが考えてくれる)
そう思うとホッとしたのだろうか。私は泣きながら、いつの間にかソファで眠ってしまっていた。
3日ほど経って、父から電話があった。
「お母さんとも話し合ったとけど、奈津子、しばらく、和彦さんに手術の話はせんようにしなさい」
予想外の答えだった。それで、何の解決になるの、と喉元まで出かかった時、父は続けた。
「和彦さん、手術が嫌て言いよらすとやろ。でも、それだけじゃなくて、結果が恐かとじゃなかとか?お前、次、手術して、もし、やっぱり無かったら、どうする?」
次、無かったら。はっきりと考えていなかった。手術させることでいっぱいだった。
「もし、今度手術して、精子が無かったら、その時になって、『あんたとじゃ子どもの出来んとやったら別れる』なんてことは絶対に許されんとぞ」
どきりとしていた。以前、和彦は、「お前、次やったら絶対有るて思てんの?」と言っていた。父は、「残された可能性を失う恐さは、本人にしか分からん。今は、しばらく見守ってやりなさい」と言って、めずらしく自分から電話を切った。
ショックだった。父なら、私に同情して、うんとやさしい言葉を掛けてくれると思っていたのだ。そして、「もうそがん奴は置いて帰って来い!」などと言われ、私は後ろ髪を引かれつつ実家に帰る、といった状況を勝手に想像していた。家には、帰れないのだ。父は厳しかった。しかし、父の言葉は、私の心に強く響いた。
私は、自分の苦しみで、体中をいっぱいにしていた。和彦のことを思いやる気持ちは、いつの間にか、消えていた。彼こそ、全身で苦しんでいるのに。彼もまた、この暗いトンネルを、一人でさまよっているのだ。
後で、母が電話でそっと教えてくれた。
「お父さんね、『奈津子が一人で悩んどると思うと・・・』って泣いとったよ」
私は唇を噛み、きつく目を閉じた。






