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第12話   0(ゼロ)が頭から離れない

毎朝を暗い気持ちで迎えていた。バスの窓から見える景色が梅になろうが桜になろうが何も感じない。全ての景色に色がなかった。
バイトにも、やっとの思いで通っていた。バイト先には、Kさんがいた。何も言葉を交わさなくても、彼女といるだけで心が安らいだ。そしてそれは、私の日常を支えていた。
和彦は、ますます無口になった。私と目も合わせたくないらしい。週に何度も飲みに行き、帰らないこともしばしばだ。私は何度も彼の夕飯を捨てた。早く帰るよう頼んでも、「付き合いや!」と一蹴する。
昼間は、和彦が怒鳴った言葉を拾い集め、ぼんやりと考えていた。和彦は、私以上に、自分は管が詰まっているだけだ、と思っていたのではないだろうか。私も、彼の無精子症がなかなか納得できなかったように、彼こそ、心が受け入れていなかったのだ。そして、その状態で手術を受けたのでショックが大きかったのだ。どうしたら、前向きに考えてくれるのだろう。わからない。
高校時代の友達から電話があった。彼女は出来ちゃった結婚で、出産したばかりだ。
「もう○○ちゃん、大きくなった?」
「うん。それよりさ、私、二人目の出来たみたいでさ」
「・・・え?・・・びっくりした」
「うーん。もう、恥かしかけん、嫌で嫌でさ。上の子も結婚前に出来たし。でも、親に、『出来ん人もおらすとよ』って言われて、それよりいいかって・・・」
途中から、どう返事をしたのかよく分からない。電話を切った後、私は考え込んだ。
(そうか。予定外に子供が出来た人って、出来ない人のこと引き合いに出して、自分を納得させるのか)
ひどく、惨めな気持ちになった。私は強くなりたいのに。なろうと思っているのに。こうして、私は今日ももろく崩れてしまう。誰も悪くない。彼女も、和彦も、誰も。しかし、誰かのせいにして憎みたい私がいる。
これから、私たちはどうなるのだろう。子どものいない人生を、どう生きるのだろう。友達の子どもの成長を横目に、和彦と二人、ずっと二人きりで生きるのか。「29歳で一人目を生んで・・・」などと計画していた私。自分の人生は思い通りに行くものだと信じていたあの頃。こんなに、こんなに人生が苦しいものだったとは、思いもしなかった・・。
ふと窓を見ると、四月だというのに雪が降り出していた。洗濯物をたたむ手を休めて、見入った。団地の五階から見る雪は、風に舞い、四方八方に飛んでいく。リズムを刻んでいるようにも見え、寒さとは裏腹に、なんだかひどく陽気な気がした。
(このくらい、精子があったらなぁ)
思わず、自分の発想に苦笑してしまった。やがてそれは涙に変わった。一瞬ではあったが、心の底からそう願ってしまったことが、我ながら悲しかった。
バイト先の幼児教室は、水曜日に一歳半の子どもたちが通うベビークラスがある。勉強というより、グループで何かをやる楽しみを味わいに来ているようだ。まだよちよち歩きの彼らが、はにかみながら挨拶してくれる姿は、大層かわいい。胸にしみる程だ。
相手をしていると、涙が込み上げてきて、トイレに駆け込むことさえあった。「泣くな、泣くな」と言い聞かせて出る。水曜日が嫌いになった。家に帰っても、和彦に手術の話は出来ない。Kさんにももう泣き言を言うまいと決めていた。両親には、「次の手術は、折を見て」と、ごまかしてあった。イライラするようになり、ストレスが溜まった。つい和彦に、「水曜日はベビークラスがあるから嫌だ」とか、「今日はベビークラスの日だから疲れた」などと口走ることがあった。直接自分の気持ちを言えない苦しみは、こんな嫌味な言葉へと姿を変えていた。
ある日、ゲームをしている彼の背中に向かって、また私は言葉の矢を放った。
「ベビークラスに、妊婦のお母さんがいてね、『今日、予定日』って言・・・」
「ええかげんにしてくれ!」
コントローラーが床に勢いよく投げつけられた。普段は相手にしないくせに、この日は違った。怒りが顔中に溢れ、力いっぱい握られた右の拳は行き場を探していた。
「お前、毎週水曜日になったら俺に文句言うて、俺がどんな気持ちになるのかわかってんのか!」
売った喧嘩のくせに、驚きと怯えで声が出ない。
「俺かてな、つらいねんで!悪かったな、種ナシで!嫌やったら別れてくれ!何べんも言うてるやろ!」
目をそらしたら負けてしまう。
「お前は俺と別れて、他の奴と結婚したらええ。そしたら種ナシとはお別れや。でも俺は変わられへん!俺はずっと種ナシのまんまや!どうせ俺は種ナシなんじゃ!」
今日に限って、風呂上りに暑いからと部屋の窓を全開にしていたことを悔やんだ。これでは近所中に聞こえてしまいそうだ。和彦が怒鳴っている間、私はそんなことを考えていた。そして慎重に言葉を選び、今一番言いたい文章を組み立てた。
「手術してよ。可能性があるとに、何でしないの?もう前のことは乗り越えてよ!」
「お前にはわからへん」
「何よ、それ!」
「これから俺はセックスする度に虚しくなる。0が頭から離れへん。これからもずっとそうや。お前には分からんことや」
話はそれで終わった。後は何を言っても、「お前には分からん」だった。私は、いつまでもしくしくと泣き続けた。それだけが、私に出来る、唯一の抗議だった。和彦の背中が揺れて見えた。泣いていた、のだろうか。掛けてやる言葉は、お互い出てこなかった。
始めは、二人で歩いていたのに。トンネルの中は、迷路になっていたのだろうか。私は完全に、彼を見失っていた。

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