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第10話   俺、手術、せん

手術からちょうど4週間後、私たちは、D病院にいた。いよいよ、N先生の口から「治療の終了」を言い渡される。私は、今までのお礼の言葉を考えていた。「絶対に泣くまい」と、心に誓う。
和彦も、「先生、『何て言おうか』て、困ってはんのやろな」と言っていたから、それなりの覚悟が出来ているようだった。
診察室へ入った時、N先生は、顕微鏡を覗いていた。そして、ゆっくりと振り返った。
「E産婦人科医院から聞いています」
いつも通り、落ち着いた声だった。
「こちらで調べた結果ですが、成熟した精子を10段階の「10」としますと、小野田さんの場合、「7、8」くらいのものがあります。私の経験上、睾丸のどこかに、精子は、あるものと思われます」
最後の、「精子は、あるものと思われます」という一言を、N先生は、ゆっくりと、そしてハッキリと発音した。身を固くしていたためか、二人とも言葉が出なかった。私たちは、知らない国の言葉を聞いたかのように、しばらく押し黙った。
(セイシガ・・・アル?ドコカニ?)
やっと、頭が少し、回ってきた。
「精子細胞が、確認されたんですね?」
「はい。良く、勉強されていますね」
私が口を開いたので、N先生は、安心したように、精子になるには、段階があり、その成長具合は、睾丸内の場所によってかなりの差があることを説明した。前回は、検査のため、睾丸の左右一箇所づつの組織を調べたが、次回は精子が見つかるまで、いろんな箇所を切りながら調べていくのだと言う。
「次回の手術の日程ですが・・・」
N先生は、壁にかかったカレンダーをめくり、ボールペンで日付を追い始めた。和彦が、拝むように片手を顔の前に出し、N先生の言葉をさえぎった。
「先生、手術なんですが、ちょっと、間をあけたいと思ってるんです」
和彦は、術後三日間、高熱が続き、退院後も、しばらく体調が優れなかったことを伝えた。N先生は、拍子抜けしたように、私と和彦の顔を交互に見つめた。
「そうですか。でもあんまり、長いことあけないほうがいいですよ。奥さんだって、早い方が妊娠しやすいですから」
月2回しかD病院にいないN先生には、手術前後の和彦の様子など分かるはずはなかった。
検査結果が、嬉しくなかったわけでは決してない。だが手放しで喜ぶには、二人とも傷つきすぎていたし、すぐ再手術に期待をかけるほど、心の準備も出来ていなかった。それに言われるまま、いくつかの病院を掛け持ちして同じ治療を受けることに疑問を感じ始めていた。

「可能性がある!」と、やっと実感できたのは、それから二、三日経ってからだった。
(今度は、あの本の病院へ行こう)
初めて買った男性不妊の本に、私も和彦も救われた。和彦は、すぐにそこの病院に行きたがったが、北九州にあるので、「遠すぎる」と私が反対したのだ。しかし、今度は和彦の言うとおりにしよう。きつく押さえていた期待と希望が、恐る恐る私に戻ってきた。そうだ、まだ幕は降りていなかったのだ。私たちには、まだチャンスがある!
久しぶりに、和彦と自転車に乗って出かけた。頬にあたる風はまだ冷たいが、程よく疲れた体には、それが心地よい。坂道を勢いよく降りると、頭の中から全てが消えていく。こんな時間の過ごし方を、私たちはすっかり忘れていた。顔を上げると、木々が芽吹いているのが分かる。春がそこまで来ていることにも、私は気がついていなかったのだ。私を引き離して、和彦はどんどん小さくなっていく。追いついたところで、私たちは休憩をとった。和彦は大きく足を放り出す。
「あちこち痛い。完璧に運動不足や」
「オヤジだもん、仕方ないって」
笑う和彦を見て、私はすっかり嬉しくなった。この人の心と体は、もう十分回復したのだ。私は、話の続きのように、さりげなく切り出した。
「あのさ、今度、北九州の病院に行ってみらん?あの本の病院に」
「・・・俺、手術、せん」
和彦は、もう笑っていなかった。休憩終了、とばかりに立ち上がり、自転車を起こし始めた。声を掛けなくては行ってしまう。
「え・・・?今、・・・何て・・・?」
「手術のこと、考えられへん。その話、もうせんといて」 
(この人は何を言ってるのだろう)
私は、言葉の意味がよく分からずに、しばらくその場に立ち尽くした。

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