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第9話   子どもがいない国にいきたい

和彦が退院し、母も長崎へ帰った。睾丸が股で擦れないよう、がに股で歩いていた和彦も、徐々に回復していった。
昼間、たまに父から電話があった。
「大丈夫か。元気にしとるか」
「・・・お父さん。私、子どものおらん国に行きたか・・・」
私は、深い絶望感を感じていた。外へ出ると、親子の姿が目に飛び込んでくる。家にいても、裏の公園から子どもたちの笑い声が聞こえてくる。そのたびに、胸を切り裂かれるような痛みが走る。泣かない日はなかった。
「一度、帰って来んか」
和彦も、同じことを言う。
「お前、一度、実家に帰って来い。親と、話し合って来いや。俺、覚悟できてんねん。おかんと一生暮らすわ」
気持ちが荒れるのだろうか、突然喧嘩腰で私に食って掛かることもあった。
「別れてくれ。これ以上お前と一緒におるのはつらい。お前だって別れたいと思てんのやろ。なぁ。長崎に帰れよ!帰れ!」
そう言われるたび、私は頭を振った。
「イヤッ!帰らん!」
帰りたかった。今すぐにでも。母を見送る時、「一緒に帰らんね?」と何度も説得されたが、必死で気持ちを押さえていたのだ。
今、和彦を支えてやれるのは私だけだ。他の誰でもない、私だけだ。今、彼のもとを離れることなど、とてもできない。自分が好きになって、「一生をこの人と生きる」と決めて、結婚したのだ。楽しい時だけを彼と過ごし、彼が苦しい時に逃げ出すなど、絶対に出来ない。それに、今離れたら、私たちは、だめになってしまう。しかし、頭ではそう思うものの、心の中の私は遠い場所にいる。私という抜け殻が、ここにいるようなのだ。
普通に結婚して、普通の夫婦になって、ごく普通の人生が続くとばかり思っていた。時折は、平凡な主婦であることに、退屈さえ感じていたというのに。今では、普通の家族の姿が、まぶしいくらいに羨ましい。
普通の人生とは何だろう。私は何をもって、「普通」を捕らえていたのだろう。世の中には、いろんな人生がある。子どものない人生を幸せに生きる人も、大勢いるではないか。いつかは私も、この問題に自分なりにけりをつけて歩き出さねばならないのだ。しかし、その日はいつ訪れるのだろう。人生の青写真が奪われた途端、私は何も見えなくなってしまった。世の中の全てが虚しい。そして、どうしようもなく、寂しい。
和彦と、夫婦の関係は、ほとんどなくなっていた。

夢をみていた。夢の中で、私は林の中を走っている。無我夢中だ。両手に何かを抱えている。木々をすり抜け、疲れ切ったところで、やっと立ち止まり、後ろを振り返った。息を切らしながら、「もういいだろう」とつぶやく。両手の力を抜き、大事に抱えてきたものをそっと覗き込んだ時、私は息を飲んだ。私の両手にあったのは、赤ちゃんだ!ハッと目が覚めた。私は、病院から、赤ちゃんを盗む夢をみたのだ!起き上がって、私は呆然とした。
(何て、何て夢をみたんだ)
私はうつぶせになってわっと泣きだした。日曜の朝だった。和彦は、社員旅行で温泉に泊まっている。涙が止まらない。山に居るせいか、和彦の携帯電話は繋がらない。ようやく起き上がり、家の中をぐるぐると歩いた。
(このまま一人でいたらおかしくなる)
なぜか強くそう思った。しかしこんな状態でどこへ行けばいいのか・・・。
(Kさん!)
私はKさんを想った。私が唯一、不妊を相談している人だった。バイト仲間のKさんは、私より十歳年上で、2人の子どもを持つお母さんだ。思いやりがあり、いつも明るい。私は、思い切って受話器を取った。
「Kさん?小野田です。あの、突然なんですけど、今日、今からそちらにお邪魔してもいいですか?」
日曜の朝、こんな突然の申し出に少しも嫌がることなく、Kさんは、「主人も子どもたちも出掛けたから暇なのよ」と、私に気を遣わせぬよう明るく応えてくれた。良かった。神様も今日ばかりは私に微笑んでくれたか。
Kさんは、私の泣きはらした顔を見て、すぐに気持ちを察してくれた。そっと熱い紅茶を置いてくれた。私は夢を思い出し、泣きながら説明した。盗んだ赤ちゃんが、先週見に行った、友達の赤ちゃんの顔だったことも。
思い出すだけで、涙が後から後から流れた。Kさんはずっと、「うん、うん」と頷いて聞いてくれている。湯気とともに紅茶の香りが、私の涙でぐちゃぐちゃの顔にやっと届いた。彼女の前だと素直になれた。包まれるようなやさしさの中で、私は落ち着いていく。
そして、ついに、吐き出してしまった。
「私、時々、思ってしまうんです。私が、私が、何したって言うのって。一体、私が何したって言うのよーって!!」
それは、和彦の前では、決して言えない言葉だった。泣き崩れる私の背中を、Kさんは、何回もさすってくれた。彼女も泣いていた。泣きながら、「泣いていいからね。ここで、思い切り泣いとき・・・」と、何度も言ってくれた。Kさんの温もりが、背中を通して、私の心にしみこんでいく。
紅茶を飲み干し、一息つくと、自分でも忘れていたことをポツリとつぶやいた。
「不思議なんです。手術の後、『精子は見つからなかった』って言われた時、ショックと同時に、『それでも何とかなる』って、心の奥からわきあがってきて・・・」
それは本当だった。和彦が初めて精液検査を受けた時と同じように、どん底の結果と裏腹に、どこからかわきあがってくる、楽観。もう私は期待して、傷つきたくないのに。どうして出てくるのだろう。それも、ひどい結果を聞いたときにかぎって。
帰り道、もうKさんにも、親にも甘えられないと思った。「主人に精子が無い」という相談はあまりに重い。不毛だった。Kさんのやさしさに、これ以上甘え続けてはいけない。両親にも、心配を掛けすぎた。
私は気持ちを引き締めることにした。すぐに前を向いて歩き出すことなど、とても出来そうに無いが、そうでもしないと、ずっと誰かに寄りかかってしまいそうだった。これは私と和彦の問題なのだ。私たち二人の間に起こったことなのだ。

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