
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
和彦が退院し、母も長崎へ帰った。睾丸が股で擦れないよう、がに股で歩いていた和彦も、徐々に回復していった。
昼間、たまに父から電話があった。
「大丈夫か。元気にしとるか」
「・・・お父さん。私、子どものおらん国に行きたか・・・」
私は、深い絶望感を感じていた。外へ出ると、親子の姿が目に飛び込んでくる。家にいても、裏の公園から子どもたちの笑い声が聞こえてくる。そのたびに、胸を切り裂かれるような痛みが走る。泣かない日はなかった。
「一度、帰って来んか」
和彦も、同じことを言う。
「お前、一度、実家に帰って来い。親と、話し合って来いや。俺、覚悟できてんねん。おかんと一生暮らすわ」
気持ちが荒れるのだろうか、突然喧嘩腰で私に食って掛かることもあった。
「別れてくれ。これ以上お前と一緒におるのはつらい。お前だって別れたいと思てんのやろ。なぁ。長崎に帰れよ!帰れ!」
そう言われるたび、私は頭を振った。
「イヤッ!帰らん!」
帰りたかった。今すぐにでも。母を見送る時、「一緒に帰らんね?」と何度も説得されたが、必死で気持ちを押さえていたのだ。
今、和彦を支えてやれるのは私だけだ。他の誰でもない、私だけだ。今、彼のもとを離れることなど、とてもできない。自分が好きになって、「一生をこの人と生きる」と決めて、結婚したのだ。楽しい時だけを彼と過ごし、彼が苦しい時に逃げ出すなど、絶対に出来ない。それに、今離れたら、私たちは、だめになってしまう。しかし、頭ではそう思うものの、心の中の私は遠い場所にいる。私という抜け殻が、ここにいるようなのだ。
普通に結婚して、普通の夫婦になって、ごく普通の人生が続くとばかり思っていた。時折は、平凡な主婦であることに、退屈さえ感じていたというのに。今では、普通の家族の姿が、まぶしいくらいに羨ましい。
普通の人生とは何だろう。私は何をもって、「普通」を捕らえていたのだろう。世の中には、いろんな人生がある。子どものない人生を幸せに生きる人も、大勢いるではないか。いつかは私も、この問題に自分なりにけりをつけて歩き出さねばならないのだ。しかし、その日はいつ訪れるのだろう。人生の青写真が奪われた途端、私は何も見えなくなってしまった。世の中の全てが虚しい。そして、どうしようもなく、寂しい。
和彦と、夫婦の関係は、ほとんどなくなっていた。
夢をみていた。夢の中で、私は林の中を走っている。無我夢中だ。両手に何かを抱えている。木々をすり抜け、疲れ切ったところで、やっと立ち止まり、後ろを振り返った。息を切らしながら、「もういいだろう」とつぶやく。両手の力を抜き、大事に抱えてきたものをそっと覗き込んだ時、私は息を飲んだ。私の両手にあったのは、赤ちゃんだ!ハッと目が覚めた。私は、病院から、赤ちゃんを盗む夢をみたのだ!起き上がって、私は呆然とした。
(何て、何て夢をみたんだ)
私はうつぶせになってわっと泣きだした。日曜の朝だった。和彦は、社員旅行で温泉に泊まっている。涙が止まらない。山に居るせいか、和彦の携帯電話は繋がらない。ようやく起き上がり、家の中をぐるぐると歩いた。
(このまま一人でいたらおかしくなる)
なぜか強くそう思った。しかしこんな状態でどこへ行けばいいのか・・・。
(Kさん!)
私はKさんを想った。私が唯一、不妊を相談している人だった。バイト仲間のKさんは、私より十歳年上で、2人の子どもを持つお母さんだ。思いやりがあり、いつも明るい。私は、思い切って受話器を取った。
「Kさん?小野田です。あの、突然なんですけど、今日、今からそちらにお邪魔してもいいですか?」
日曜の朝、こんな突然の申し出に少しも嫌がることなく、Kさんは、「主人も子どもたちも出掛けたから暇なのよ」と、私に気を遣わせぬよう明るく応えてくれた。良かった。神様も今日ばかりは私に微笑んでくれたか。
Kさんは、私の泣きはらした顔を見て、すぐに気持ちを察してくれた。そっと熱い紅茶を置いてくれた。私は夢を思い出し、泣きながら説明した。盗んだ赤ちゃんが、先週見に行った、友達の赤ちゃんの顔だったことも。
思い出すだけで、涙が後から後から流れた。Kさんはずっと、「うん、うん」と頷いて聞いてくれている。湯気とともに紅茶の香りが、私の涙でぐちゃぐちゃの顔にやっと届いた。彼女の前だと素直になれた。包まれるようなやさしさの中で、私は落ち着いていく。
そして、ついに、吐き出してしまった。
「私、時々、思ってしまうんです。私が、私が、何したって言うのって。一体、私が何したって言うのよーって!!」
それは、和彦の前では、決して言えない言葉だった。泣き崩れる私の背中を、Kさんは、何回もさすってくれた。彼女も泣いていた。泣きながら、「泣いていいからね。ここで、思い切り泣いとき・・・」と、何度も言ってくれた。Kさんの温もりが、背中を通して、私の心にしみこんでいく。
紅茶を飲み干し、一息つくと、自分でも忘れていたことをポツリとつぶやいた。
「不思議なんです。手術の後、『精子は見つからなかった』って言われた時、ショックと同時に、『それでも何とかなる』って、心の奥からわきあがってきて・・・」
それは本当だった。和彦が初めて精液検査を受けた時と同じように、どん底の結果と裏腹に、どこからかわきあがってくる、楽観。もう私は期待して、傷つきたくないのに。どうして出てくるのだろう。それも、ひどい結果を聞いたときにかぎって。
帰り道、もうKさんにも、親にも甘えられないと思った。「主人に精子が無い」という相談はあまりに重い。不毛だった。Kさんのやさしさに、これ以上甘え続けてはいけない。両親にも、心配を掛けすぎた。
私は気持ちを引き締めることにした。すぐに前を向いて歩き出すことなど、とても出来そうに無いが、そうでもしないと、ずっと誰かに寄りかかってしまいそうだった。これは私と和彦の問題なのだ。私たち二人の間に起こったことなのだ。






