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第8話   アルノカ、ナイノカ・・・握り締めた試験管

手術の前日、長崎から母が来てくれた。すでに和彦が入院しているというのに、両手に抱えきれないほどのお土産を持っていた。
翌朝、6時に家を出て、私たちはE産婦人科医院へ向かった。和彦の手術の前に、培養液を取りに行くように言われていたのだ。予定では手術の後、その培養液に採れた睾丸組織を入れてもらい、再び私がE産婦人科へ運ぶことになっている。手術を受けるD病院に近いとは言え、電車で2駅の距離だ。
私は、朝一番に行われる和彦の手術に間に合うよう、E産婦人科医院へ行けるか不安で、前日にE産婦人科医院へ問い合わせたのだが、恐ろしく無愛想な看護師から、「今さら言われたって困るわよ!」と、一蹴されてしまった。これは私をひどく傷つけた。
ラッシュにもまれ、電車を乗り継ぎ、やっとE産婦人科医院から受け取った培養液をD病院に届けたのは、手術の20分前だった。
大部屋の真ん中のカーテンから、「はぁー」と言う大きなため息がもれてきた。そっと覗くと、看護師さんが和彦に注射をしているところだった。母は、和彦にあいさつすると、部屋から出て行った。
「だんだん、恐なってきたわ」
和彦はとても緊張していた。手術は半身麻酔なので、意識はあるし、切るのは睾丸なのだ。彼でなくても恐かろう。
いよいよ時間となり、看護師さんが二人来て、和彦のベッドを動かし始めた。彼の足元に、ぽんと置かれたカルテが目に入る。
『患者名/小野田和彦  病名/無精子症』
なんだか、不思議な感じがした。
(そうか。この人は、無精子症なのだ)
この期に及んで何を、と、自分でも思うのだが、他人の字で記号のように書かれた彼の名と、その隣に書かれた「無精子症」という病名を見ると、その無機質な字の並びが、改めて、現実であることを私に知らしめた。結婚以来、病気で会社を休んだことさえない和彦。そんな彼が、よりによってこんな病気だったとは。もう、何べんも頭に叩き込んであるはずの言葉なのに、私はまだこの現実を認められないでいるようだった。
手術室のドアまで和彦を見送ると、母と二人、遅い朝食を取りに喫茶室へ入った。モーニングを注文したものの、当然何も喉を通らない。母は、私の分のトーストに手を出した。「また太ってしまうねぇ」と言いながらも、手を休める様子は無い。体格と同様、こんな時でさえ、母は堂々としていた。私のことを心配して来たはずなのに、「成るようにしか成らんて」と言い放つ。しかし母がそう言うと、少し肩の力が抜けた。
予定より30分遅れて、手術が終わり、試験管に入れられた組織を持って、母とタクシーに飛び乗った。二本の試験管を持つ手が震えた。ビニールに包まれただけの細い試験管の中には、組織らしいタンポポの綿毛のようなものが、少量の血液とともに入れられていた。この中に、アルノカ、ナイノカ。試験管を受け取る時、執刀医の先生が言われたことを思い出した。
「管は通っていました。しかし、精子が有るか無いかはまた別ですから」
第1希望は無くなったわけだ。E産婦人科医院に着き、組織を届けると、私はぐったりとソファに座り込んだ。待合室のテレビでは、卵子に針を突き刺し、一匹の精子を注入する顕微授精の様子が繰り返しビデオで流されている。母はまじまじと見つめているが、私はとても正視できない。
診察室に呼ばれた。いよいよかと思いきや、「ちょっと調べるのに時間がかかりそうだから、3時間後にまた来てもらえるかな」と、意外な返事が返ってきた。なんとか心の乱れを整え、D病院に戻ると、和彦が苦しそうな表情で待っていた。
「管、通ってたそうやな」
頷くしかなかった。頭痛と持病のヘルニアに加え、高い熱も出ていた。顔色も悪い。
3時間後、再びE産婦人科医院を訪れた。待合室に母を残し、1人で診察室へ入った。夕べほとんど寝てないせいか、頭痛がひどい。左手で頭を支えるようにして、E先生の前に座る。そして、重い口が開かれた。
「力が及ばず、残念なんですが・・・、今回、精子は、見つかりませんでした」
痛みは、工事現場のように、ガンガンと鳴り響きながら私に襲い掛かった。「・・・そんな・・・、そんな・・・」。私は頭を抱え込んだ。顔を上げられないほど、頭が重い。E先生の言葉が遠くから聞こえてきた。
「精子がね、一匹でもあれば、顕微授精できるんだけどね。一匹でもあれば・・・」
その言葉は、さらに私を苦しめた。今日採れた組織の中には、とにかく一匹の精子も無かったのだ。一匹も!一匹でも有れば、子どもが持てるというのに。その一匹がいないのだ。本当に、ゼロなのだ!
「でもまだD病院で詳しく調べるんだから、あきらめちゃダメだよ」
涙が、思い出したようにどっと溢れた。
(あきらめるなって?どうやって?これ以上、どうがんばれと言うの?)
その場に倒れそうになり、ベッドに運ばれると、母が駆け寄ってきた。
「お母さん、私、和彦さんに何て言えばよかと?何て、何て言えば・・・?」
「しっかりせんば。あんたがしっかり・・・」
言いながら、母も泣いていた。母にすがりついて、私はわんわんと泣きじゃくった。
本当に、どうすればいいのだろう?もう私は立ち上がれそうに無かった。体中のどこからも、力は湧いてこない。墓参りは?祈祷は?神も、仏も無いのか?誰も、助けてはくれないのか?これから、どうやって生きていけばいい?明日からの日々を、一体どうやって・・・。

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