
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
バイトが休みだと、昼間、ぼんやりとしてしまう。何も手につかないのだ。私は時々実家に電話をした。父が定年退職後、いつも家にいるからだ。
「もしもし、私。ごめん。何も用事はないとけど、何もする気の起きらんで」
「そうだな。まだ、つらか時期たい」
電話の向こうで、父はいつもやさしかった。一生懸命、私を励ましてくれる。忙しい時もあるだろうに、一度たりとも、自分から電話を切ることは無かった。父の話に、私は、「うん、うん」と答えるだけで精一杯だ。父の話す内容よりも、そのやさしい声を聞くだけで慰められた。私は、心がいつも、緊張で張り詰めていた。人と会う時は、いつもと変わらぬように振る舞うので、ピリピリした。和彦といる時も、悲しい顔をすることが、彼を傷つけることになるので、努めて明るくしていた。感情を開放して、思い切り泣けるのは、昼間、一人のときだけだ。
こんな風に電話してしまうと、両親を心配させるだけだと思いながらも、不安で押しつぶされそうで、自分でもどうしようもないのだ。電話を切り、ようやく泣き止むと、私はやっとのろのろと立ち上がることが出来た。
夕食が終わった時、不意に和彦が言った。
「俺、お前の親に、謝ろうかな」
私は慌てて否定した。和彦が両親に謝る姿を想像するだけで、胸が張り裂ける。
「そんなことせんでいいって。これは、誰が悪いとか言うことじゃない。それに、前言ってくれたよね。『もし調べて、お前になんかあっても俺の気持ちは変わらへん』って。私、今同じ気持ちよ」
「あれはなぁ、保険や」
保険?唐突過ぎる単語だった。
「お前が病院行き始めて、なんとなく、お前に何もないんちゃうかって、わかってきて、それで、もし俺に原因があるてなったら、お前に逃げられんように、先手を打っときたかったんやと思う。そういう下心から出た言葉や、あれは。だから、忘れてええで」
「あぁ、そうだったの」と、言えずに返事を飲み込んだ。正直すぎる告白は、私を責めているようにも感じたからだ。この人も、ずっと苦しんできたのだ。そして、彼の中でも希望の風船はしぼんでいる。不妊治療は、よく先の見えないトンネルのよう、と言われるが、この時、その闇のあまりの暗さに、二人とも立ちすくんでしまっていた。
初診から二週間後、私たちは再びC大病院を訪れた。パソコン画面を見つめたまま、N先生が慎重に答える。
「この、検査結果から見ますと、小野田さんのホルモンの数値は、通常で、精子のある方と、ほぼ変わりません」
「主人の睾丸の中に、精子があると言うことなんですか?」
「それはまだ、睾丸組織検査手術を受けていただかないと、分かりません。ただ、データ上は、睾丸内に精子がある可能性がある、ということです」
緊張のため、コチコチだった肩の力が、ふぅっと抜けた。何しろ、これで8割がたの確率で分かると言われていたのだ。しかしN先生は、「データ上可能性が高くても、無い場合もありますから」と、釘をさした。決して、楽観できないことが伝わる。
「手術ですが、この病院ではなくて、私が月2回診察をしている、D病院を紹介します。このC大病院だと、かなり待っていただくことになってしまいますから」
手術の内容が説明される。
まず、睾丸の左右の管を、それぞれ2箇所切る。一方から液を入れ、もう一方の箇所から出てくるかを調べる。これで最初に、管が通っているかどうかを調べる。次に、左右の睾丸の一箇所づつから、水道水一滴分程の組織を採る。これは2ヶ所で調べられる。一つは、手術したD病院の泌尿器科で、2週間ほど培養し、睾丸組織を細胞レベルで調べる。もう一つは、産婦人科へ。ここでは、その日のうちに、精子そのものが有るか無いかを調べ、もし有れば、それを凍結し、後日それを使って顕微授精を行う、ということだった。
また、産婦人科は手術を行うD病院ではなく、近くのE産婦人科医院を紹介された。顕微授精の技術を持つ産婦人科は、少ないそうだ。ほっとしたのもつかの間、具体的な手術の話に、二人とも再び緊張した。
お正月をはさんで、手術は1ヵ月後となった。落ち着かない日々のなかで、私は何度も本を読んだ。中に、「睾丸内に精子がなくても、後期精子細胞があれば、顕微授精で妊娠が可能」という箇所を見つけた。一度読んでもピンと来ないが、要するに、精子は突如現れるのではなく、「精子のモト」のような細胞から、いくつかの段階を経て成長し、あの尾っぽの付いた成熟精子になる。そして、その一歩前の段階である、「後期精子細胞」には、精子と同じような受精能力があるのだ。
(細胞、か・・・)
精子と卵子は、私の頭の中でいつも盛んに飛び交うが、細胞となると、なんだかSFのような気がする。しかし、これが最新の男性不妊治療なのだ。だが、原発性無精子症の約半分はその精子のモトも無いという。手術後、D病院で睾丸組織を細胞レベルで調べる、ということの意味がこれで分かった。
私は、頭を整理する。今度の検査手術で、1番の希望は、彼が精管に問題のある閉塞性無精子症であることだ。つまり、管が詰まっているだけだ、ということ。これならば、ほぼ確実に睾丸内に精子は存在するらしい。2番目の希望は、原発性無精子症であっても、睾丸内から成熟精子が採れること。そして、3番目の希望が、成熟精子でなくとも、その一歩手前の後期精子細胞が見つかること、だ。こうやって、順番を付けて考えると、分かりやすくなったように思った。まるで洗濯物を色分けして、洗う順番を決めるように、頭の中のかごの中身を整頓していく。とにかく、手術日当日に、希望の一番目と二番目が分かるのだ。さすがに、三番目の、細胞がどうこうというのは、信じられない、というか、少し怖いような気がした。
毎日毎日、睾丸内に精子が有るのか無いのか、そればかり気になった。考えると止まらない。食事を作っていても、洗濯をしていても、買い物の途中でも、呪文のように、「アルノカ・ナイノカ」と唱えている。眠りにつくまで消えない。
天国のお父さんにお願いしようと、墓参りに行った。和彦と、子授けで有名な神社にも出向き、祈祷をしてもらった。夫婦でまたぐと子供が出来る、と言われる石を神妙にまたいだりもした。本当に、もう、祈るしかなかった。他に何ができたというのだろう。自分たちの力では、どうしようもないのだ。
私は必死だった。しかし、壁に貼ったお札に、一日何回も頭を下げる私の姿が、和彦にとって、徐々に重荷になっていることを、この時の私は全く知らなかった。






