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第7話   睾丸内に精子がいる!?

バイトが休みだと、昼間、ぼんやりとしてしまう。何も手につかないのだ。私は時々実家に電話をした。父が定年退職後、いつも家にいるからだ。
「もしもし、私。ごめん。何も用事はないとけど、何もする気の起きらんで」
「そうだな。まだ、つらか時期たい」
電話の向こうで、父はいつもやさしかった。一生懸命、私を励ましてくれる。忙しい時もあるだろうに、一度たりとも、自分から電話を切ることは無かった。父の話に、私は、「うん、うん」と答えるだけで精一杯だ。父の話す内容よりも、そのやさしい声を聞くだけで慰められた。私は、心がいつも、緊張で張り詰めていた。人と会う時は、いつもと変わらぬように振る舞うので、ピリピリした。和彦といる時も、悲しい顔をすることが、彼を傷つけることになるので、努めて明るくしていた。感情を開放して、思い切り泣けるのは、昼間、一人のときだけだ。
こんな風に電話してしまうと、両親を心配させるだけだと思いながらも、不安で押しつぶされそうで、自分でもどうしようもないのだ。電話を切り、ようやく泣き止むと、私はやっとのろのろと立ち上がることが出来た。
夕食が終わった時、不意に和彦が言った。
「俺、お前の親に、謝ろうかな」
私は慌てて否定した。和彦が両親に謝る姿を想像するだけで、胸が張り裂ける。
「そんなことせんでいいって。これは、誰が悪いとか言うことじゃない。それに、前言ってくれたよね。『もし調べて、お前になんかあっても俺の気持ちは変わらへん』って。私、今同じ気持ちよ」
「あれはなぁ、保険や」
保険?唐突過ぎる単語だった。
「お前が病院行き始めて、なんとなく、お前に何もないんちゃうかって、わかってきて、それで、もし俺に原因があるてなったら、お前に逃げられんように、先手を打っときたかったんやと思う。そういう下心から出た言葉や、あれは。だから、忘れてええで」
「あぁ、そうだったの」と、言えずに返事を飲み込んだ。正直すぎる告白は、私を責めているようにも感じたからだ。この人も、ずっと苦しんできたのだ。そして、彼の中でも希望の風船はしぼんでいる。不妊治療は、よく先の見えないトンネルのよう、と言われるが、この時、その闇のあまりの暗さに、二人とも立ちすくんでしまっていた。
初診から二週間後、私たちは再びC大病院を訪れた。パソコン画面を見つめたまま、N先生が慎重に答える。
「この、検査結果から見ますと、小野田さんのホルモンの数値は、通常で、精子のある方と、ほぼ変わりません」
「主人の睾丸の中に、精子があると言うことなんですか?」
「それはまだ、睾丸組織検査手術を受けていただかないと、分かりません。ただ、データ上は、睾丸内に精子がある可能性がある、ということです」
緊張のため、コチコチだった肩の力が、ふぅっと抜けた。何しろ、これで8割がたの確率で分かると言われていたのだ。しかしN先生は、「データ上可能性が高くても、無い場合もありますから」と、釘をさした。決して、楽観できないことが伝わる。
「手術ですが、この病院ではなくて、私が月2回診察をしている、D病院を紹介します。このC大病院だと、かなり待っていただくことになってしまいますから」
手術の内容が説明される。
 まず、睾丸の左右の管を、それぞれ2箇所切る。一方から液を入れ、もう一方の箇所から出てくるかを調べる。これで最初に、管が通っているかどうかを調べる。次に、左右の睾丸の一箇所づつから、水道水一滴分程の組織を採る。これは2ヶ所で調べられる。一つは、手術したD病院の泌尿器科で、2週間ほど培養し、睾丸組織を細胞レベルで調べる。もう一つは、産婦人科へ。ここでは、その日のうちに、精子そのものが有るか無いかを調べ、もし有れば、それを凍結し、後日それを使って顕微授精を行う、ということだった。
また、産婦人科は手術を行うD病院ではなく、近くのE産婦人科医院を紹介された。顕微授精の技術を持つ産婦人科は、少ないそうだ。ほっとしたのもつかの間、具体的な手術の話に、二人とも再び緊張した。
お正月をはさんで、手術は1ヵ月後となった。落ち着かない日々のなかで、私は何度も本を読んだ。中に、「睾丸内に精子がなくても、後期精子細胞があれば、顕微授精で妊娠が可能」という箇所を見つけた。一度読んでもピンと来ないが、要するに、精子は突如現れるのではなく、「精子のモト」のような細胞から、いくつかの段階を経て成長し、あの尾っぽの付いた成熟精子になる。そして、その一歩前の段階である、「後期精子細胞」には、精子と同じような受精能力があるのだ。
(細胞、か・・・)
精子と卵子は、私の頭の中でいつも盛んに飛び交うが、細胞となると、なんだかSFのような気がする。しかし、これが最新の男性不妊治療なのだ。だが、原発性無精子症の約半分はその精子のモトも無いという。手術後、D病院で睾丸組織を細胞レベルで調べる、ということの意味がこれで分かった。
私は、頭を整理する。今度の検査手術で、1番の希望は、彼が精管に問題のある閉塞性無精子症であることだ。つまり、管が詰まっているだけだ、ということ。これならば、ほぼ確実に睾丸内に精子は存在するらしい。2番目の希望は、原発性無精子症であっても、睾丸内から成熟精子が採れること。そして、3番目の希望が、成熟精子でなくとも、その一歩手前の後期精子細胞が見つかること、だ。こうやって、順番を付けて考えると、分かりやすくなったように思った。まるで洗濯物を色分けして、洗う順番を決めるように、頭の中のかごの中身を整頓していく。とにかく、手術日当日に、希望の一番目と二番目が分かるのだ。さすがに、三番目の、細胞がどうこうというのは、信じられない、というか、少し怖いような気がした。
毎日毎日、睾丸内に精子が有るのか無いのか、そればかり気になった。考えると止まらない。食事を作っていても、洗濯をしていても、買い物の途中でも、呪文のように、「アルノカ・ナイノカ」と唱えている。眠りにつくまで消えない。
天国のお父さんにお願いしようと、墓参りに行った。和彦と、子授けで有名な神社にも出向き、祈祷をしてもらった。夫婦でまたぐと子供が出来る、と言われる石を神妙にまたいだりもした。本当に、もう、祈るしかなかった。他に何ができたというのだろう。自分たちの力では、どうしようもないのだ。
私は必死だった。しかし、壁に貼ったお札に、一日何回も頭を下げる私の姿が、和彦にとって、徐々に重荷になっていることを、この時の私は全く知らなかった。

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