
無精子症治療
「0の行方」
第2話 精子が見当たらない!?
第3話 0(ゼロ)から生み出す魔法
第4話 何も変わらない
第5話 何で、俺やねんやろ
第7話 睾丸内に精子がいる!?
第9話 子どもがいない国にいきたい
第10話 俺、手術、せん
第11話 あきらめられない
第12話 0(ゼロ)が頭から離れない
第13話 温かい父の厳しい言葉
第14話 逃げているのは私だ
第15話 俺、手術、するわ
第16話 セントマザーとの出会い
第17話 俺、受精してん!受精してん!
最終話 これがお前のパパやで!
次の日から、重い苦悩の日々が始まった。朝、目が覚める前に、うとうとまどろんでいると、スッと「セイシガナイ」という言葉が頭のすきから入り込んでくる。すると、もう睡魔は一瞬で消え去る。鈍い頭の痛みとともに、悲しみが体全身に広がる。「あぁ、あれは夢ではなかった」。診察室での出来事が、まざまざと蘇る。そして、涙がこぼれ落ちる。毎朝、この繰り返しだ。
不妊を意識し始めたときから、私には嫌な予感がしていた。しかし、まさかこれほどのことが待っているとは思ってもみなかった。崖から突き落とされたような気持ちだ。
それでも朝は来る。生活を始めなくてはならない。立ち上がらなくては。しかし、和彦を送り出すと、私は膝から折れるようにソファに横たわってしまう。やがて涙が流れ、耳やら髪やらを濡らしていく。無理だ。私にはとても、今までと同じ生活を送ることなどできない。第一、何も手につかない。顔を洗い、歯を磨き、朝食をとって仕事に行く、ということが、今の私にはもうとても難しい。全てが億劫だ。何もしたくない。このまま、この部屋に閉じこもってしまいたい。
なんとか立ち上がり、部屋を出る。滑り込むようにバスに乗ると、また「不妊」の二文字が頭をよぎる。小さな子どもがいると目を閉じ、耳をふさぎたくなった。苦しい。
目の前に立ったお年寄りに席を譲る。
(このお爺さんにも、精子はあるんだ)
隣のサラリーマンにも、前に座っている中学生にもみんな、精子はあるのだ、きっと。当たり前のように、持っているのだ。なぜ?なぜなのだろう。どうして和彦には精子が無いのだろう?本当に、どうして・・?
バスを降り、バイト先に着くまでは、なるべく周りを見ない。子ども、特にベビーカーとすれ違いたくないのだ。今の私に赤ん坊の顔などとてもまともに見ることは出来ない。教室に着くと、ドアを開ける前に、深呼吸する。笑顔を作るためだ。「おはようございまーす」。仕事に取り掛かると、少しだけ忘れられた。しかし、生徒たちが入ってくると、私の胸は再び締め付けられる。授業開始を待つ間、子どもたちのたちの声でフロアはたちまちにぎやかになる。「今日幼稚園でねー」と話し掛けてくる子がいる。飴を交換する女の子達。椅子に座った皆の足がぶらぶらと揺れる。その表情、その声。本当に、胸が苦しくなるくらいかわいい、こどもたち。神様は意地悪なのだろうか。自分に子どもを持つのは無理かもしれない、とわかった途端、子供たちのかわいらしさが倍増したように思えてならない。私はこんなに子ども好きだったか?違う。私は母性の蓋を開けてしまったのだ。一度開けると、それは雲のようにもくもくと広がり、私の心を埋め尽くしてしまった。もう私が思うことはただ一つ。「あぁ、子どもが欲しい。自分の子どもが」。これは、そんなに過ぎた願いなのか。
夜になると、和彦と、何を話していいかわからない。適当な話をしていても、それはBGMのようなもので、結局、私たちの頭は、不妊のことでいっぱいなのだった。
明かりを消すと、和彦の声がした。
「何で、俺やねんやろ」
自分に問うているようでもあった。
「・・・うん、信じられんよね」
世の中に、無精子症という病気があることは知っていた。しかし、まさかそれが彼だとは。まだ心のどこかが信じられずにいる。
「ごめんな。俺と結婚せえへん方がよかったな。お前の親に、悪いな」
「謝らんでよ。あなたが悪いわけじゃないよ。うちのことは、気にせんで」
実家の両親には、電話で伝えてあった。絶句していた。そして、私のことを、とても心配していた。
「俺が種ナシやったら、俺にとってセックスってなんやろな」
「タネナシ」。その言葉の持つ鋭さに、一瞬で胸がかき乱される。
「生きてるものの最大の本能やろ、子孫を残すって。そんなことが俺には出来へんのやで。情けない。男としては失格やな」
「そんなことないって。まだはっきり分からんし」
なんだか答えにならない。
「正直、結婚、失敗したなて、思てるやろ」
すぐに私は首を振った。
「ううん。好きで結婚したとよ。まだ分からんし、これから、二人でさ、がんばってみようよ、ね」
私の口から出た言葉は軽すぎて、滑ってどこかへ吹き飛ばされてしまった。とても彼を慰めることはできない。部屋全体に広がっていった、その後の沈黙の方が、ずっと確かで、重いものだった。
自分で買った男性不妊の本を、私は熱心に読んだ。本によると、やはり,「精液検査は2回以上受けましょう」と、書いてある。通常、精液1mlあたり約5000万〜1億5000万匹の精子がいる。目安として、
- 精子数3000万〜1000万/ml 運動率60%〜40% → (人工授精)
- 精子数1000万〜100万/ml 運動率40%〜10% → (体外受精)
- 精子数 運動率 それ以下 → (顕微授精)
となっている。顕微授精とは、卵子と、精子を、顕微鏡で見ながら人工的に受精させて、体外受精を行う方法だ。この方法なら、一匹の精子を直接卵子の中に入れるので、かなり精子の数が少ない人や、運動率の悪い人にも可能性があるという。
和彦の場合、1回目の精液検査で、0だったのだから、次回、いきなり百万匹もあるとはとても思えなし、おそらく、私たちに一番近いのは、この、顕微授精なのだろう。しかし、次回の検査でも、全く無かったら?
本には、「無精子症の、約半分は妊娠する可能性があります。まず、睾丸組織検査を受けましょう」とある。精液中に精子が無いということは、二つの原因が考えられる。
- 睾丸で、精子を正常に作れない場合 → 原発性無精子症
- 精子は作られているのに、精管に障害がある場合 → 閉塞性無精子症
睾丸組織検査では、簡単な麻酔をして、睾丸の一部をとり、中に精子があれば、それを顕微授精に用いるのだ。つまり、極端な言い方をすれば、睾丸の中に、一匹でも精子があれば、妊娠の可能性があるのだと言う。今の医学は、こんなところまで来ていたのか。どんな原因であるにしろ、とにかく、睾丸の中に、精子があれば・・・。だが、それは、無精子症の人の、約半分の割合らしい。後の半分の人は、睾丸の中にも、精子が無いのか。50%。二人に一人。多いのか、少ないのか。「もう子どもは無理なのだ」と思っていたのだから、50%も可能性がある!と思うと、とても励まされるが、不運な50%のことを考えると、ぞっとする。
お義母さんから、電話があった。お義姉さんと相談したらしく、「C大病院へ行ってみたら」との提案だった。お義母さんによると、C大病院の男性不妊科は有名で、お義姉さんの知り合いも、そこへ通って、子供が出来たのだそうだ。私たちにとっても、C大病院は、地理的に都合が良かった。それに、きっと、最新の医学が必要とされるだろうから、大学病院は、最適に思えた。
さっそく電話で予約を取った。1週間後の、金曜日。月2回、男性不妊専門の医師が診てくれるのだ。しかし、最初に、A病院で、「精子が見当たらない」と言われてから、病院へ行くのが恐くなっていた。C大病院では、何が待っているのだろうか。






