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第5話   何で、俺やねんやろ

次の日から、重い苦悩の日々が始まった。朝、目が覚める前に、うとうとまどろんでいると、スッと「セイシガナイ」という言葉が頭のすきから入り込んでくる。すると、もう睡魔は一瞬で消え去る。鈍い頭の痛みとともに、悲しみが体全身に広がる。「あぁ、あれは夢ではなかった」。診察室での出来事が、まざまざと蘇る。そして、涙がこぼれ落ちる。毎朝、この繰り返しだ。
不妊を意識し始めたときから、私には嫌な予感がしていた。しかし、まさかこれほどのことが待っているとは思ってもみなかった。崖から突き落とされたような気持ちだ。
それでも朝は来る。生活を始めなくてはならない。立ち上がらなくては。しかし、和彦を送り出すと、私は膝から折れるようにソファに横たわってしまう。やがて涙が流れ、耳やら髪やらを濡らしていく。無理だ。私にはとても、今までと同じ生活を送ることなどできない。第一、何も手につかない。顔を洗い、歯を磨き、朝食をとって仕事に行く、ということが、今の私にはもうとても難しい。全てが億劫だ。何もしたくない。このまま、この部屋に閉じこもってしまいたい。
なんとか立ち上がり、部屋を出る。滑り込むようにバスに乗ると、また「不妊」の二文字が頭をよぎる。小さな子どもがいると目を閉じ、耳をふさぎたくなった。苦しい。
目の前に立ったお年寄りに席を譲る。
(このお爺さんにも、精子はあるんだ)
隣のサラリーマンにも、前に座っている中学生にもみんな、精子はあるのだ、きっと。当たり前のように、持っているのだ。なぜ?なぜなのだろう。どうして和彦には精子が無いのだろう?本当に、どうして・・?
バスを降り、バイト先に着くまでは、なるべく周りを見ない。子ども、特にベビーカーとすれ違いたくないのだ。今の私に赤ん坊の顔などとてもまともに見ることは出来ない。教室に着くと、ドアを開ける前に、深呼吸する。笑顔を作るためだ。「おはようございまーす」。仕事に取り掛かると、少しだけ忘れられた。しかし、生徒たちが入ってくると、私の胸は再び締め付けられる。授業開始を待つ間、子どもたちのたちの声でフロアはたちまちにぎやかになる。「今日幼稚園でねー」と話し掛けてくる子がいる。飴を交換する女の子達。椅子に座った皆の足がぶらぶらと揺れる。その表情、その声。本当に、胸が苦しくなるくらいかわいい、こどもたち。神様は意地悪なのだろうか。自分に子どもを持つのは無理かもしれない、とわかった途端、子供たちのかわいらしさが倍増したように思えてならない。私はこんなに子ども好きだったか?違う。私は母性の蓋を開けてしまったのだ。一度開けると、それは雲のようにもくもくと広がり、私の心を埋め尽くしてしまった。もう私が思うことはただ一つ。「あぁ、子どもが欲しい。自分の子どもが」。これは、そんなに過ぎた願いなのか。
夜になると、和彦と、何を話していいかわからない。適当な話をしていても、それはBGMのようなもので、結局、私たちの頭は、不妊のことでいっぱいなのだった。
明かりを消すと、和彦の声がした。
「何で、俺やねんやろ」
自分に問うているようでもあった。
「・・・うん、信じられんよね」
世の中に、無精子症という病気があることは知っていた。しかし、まさかそれが彼だとは。まだ心のどこかが信じられずにいる。
「ごめんな。俺と結婚せえへん方がよかったな。お前の親に、悪いな」
「謝らんでよ。あなたが悪いわけじゃないよ。うちのことは、気にせんで」
実家の両親には、電話で伝えてあった。絶句していた。そして、私のことを、とても心配していた。
「俺が種ナシやったら、俺にとってセックスってなんやろな」
「タネナシ」。その言葉の持つ鋭さに、一瞬で胸がかき乱される。
「生きてるものの最大の本能やろ、子孫を残すって。そんなことが俺には出来へんのやで。情けない。男としては失格やな」
「そんなことないって。まだはっきり分からんし」
なんだか答えにならない。
「正直、結婚、失敗したなて、思てるやろ」
すぐに私は首を振った。
「ううん。好きで結婚したとよ。まだ分からんし、これから、二人でさ、がんばってみようよ、ね」
私の口から出た言葉は軽すぎて、滑ってどこかへ吹き飛ばされてしまった。とても彼を慰めることはできない。部屋全体に広がっていった、その後の沈黙の方が、ずっと確かで、重いものだった。
自分で買った男性不妊の本を、私は熱心に読んだ。本によると、やはり,「精液検査は2回以上受けましょう」と、書いてある。通常、精液1mlあたり約5000万〜1億5000万匹の精子がいる。目安として、

  • 精子数3000万〜1000万/ml 運動率60%〜40% →  (人工授精)
  • 精子数1000万〜100万/ml 運動率40%〜10% →  (体外受精)
  • 精子数 運動率 それ以下 →  (顕微授精)

となっている。顕微授精とは、卵子と、精子を、顕微鏡で見ながら人工的に受精させて、体外受精を行う方法だ。この方法なら、一匹の精子を直接卵子の中に入れるので、かなり精子の数が少ない人や、運動率の悪い人にも可能性があるという。
和彦の場合、1回目の精液検査で、0だったのだから、次回、いきなり百万匹もあるとはとても思えなし、おそらく、私たちに一番近いのは、この、顕微授精なのだろう。しかし、次回の検査でも、全く無かったら?
本には、「無精子症の、約半分は妊娠する可能性があります。まず、睾丸組織検査を受けましょう」とある。精液中に精子が無いということは、二つの原因が考えられる。

  • 睾丸で、精子を正常に作れない場合 → 原発性無精子症
  • 精子は作られているのに、精管に障害がある場合 → 閉塞性無精子症

睾丸組織検査では、簡単な麻酔をして、睾丸の一部をとり、中に精子があれば、それを顕微授精に用いるのだ。つまり、極端な言い方をすれば、睾丸の中に、一匹でも精子があれば、妊娠の可能性があるのだと言う。今の医学は、こんなところまで来ていたのか。どんな原因であるにしろ、とにかく、睾丸の中に、精子があれば・・・。だが、それは、無精子症の人の、約半分の割合らしい。後の半分の人は、睾丸の中にも、精子が無いのか。50%。二人に一人。多いのか、少ないのか。「もう子どもは無理なのだ」と思っていたのだから、50%も可能性がある!と思うと、とても励まされるが、不運な50%のことを考えると、ぞっとする。
お義母さんから、電話があった。お義姉さんと相談したらしく、「C大病院へ行ってみたら」との提案だった。お義母さんによると、C大病院の男性不妊科は有名で、お義姉さんの知り合いも、そこへ通って、子供が出来たのだそうだ。私たちにとっても、C大病院は、地理的に都合が良かった。それに、きっと、最新の医学が必要とされるだろうから、大学病院は、最適に思えた。
さっそく電話で予約を取った。1週間後の、金曜日。月2回、男性不妊専門の医師が診てくれるのだ。しかし、最初に、A病院で、「精子が見当たらない」と言われてから、病院へ行くのが恐くなっていた。C大病院では、何が待っているのだろうか。

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