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第4話   何も変わらない

夕方になって、私たちは和彦の実家を訪れた。いつものように、お義母さんと義弟の馨さんが迎えてくれた。ダイニングテーブルにつき、お茶をいただく。和彦は煙草を吸い、ただ黙っている。四人で囲むように座っていると、なんだか急に改まった感じがした。
やがて、いつもとは違う私たちの雰囲気に、二人とも気がついたようだった。私たちの顔を見比べ、「大方、喧嘩でもしたんだろう」と、目で話している。居心地の悪い沈黙の後、やっと、和彦が口を開いた。
「俺な、精子、無いねんて」
「・・・は?」
二人とも、顔を前に突き出し、和彦を見た。驚いて、次の言葉が出ないようだった。それはあまりに突然の報告だった。
「俺、精子無いて言われてん。医者から。一個も見当たらんて。ゼロやねんて」
指で、ゼロの形を作り、和彦は、そこまで一気に言った。眉が不自然に上下している。
「し、調べたんか?」
「何で?何であんたが?」
「確かなんか?」
矢継ぎ早に質問され、和彦は、今日私と一緒に精液検査のため病院へ行ったことを話した。ひと通りの話を聞くと、お義母さんは、唸るようなため息を漏らし、頭を抱え込んだ。馨さんは、目の前のコーヒーカップを見つめ、呆然としていた。私は、流れる涙をそのままにして、黙り込んでいた。
「ということは、子供は無理なんやね。仕方、ないもんね」
お義母さんが頬杖をついた時、私は思い出して、今日買った本を取り出した。
「でもあの、色々、治療があるみたいなんです」
馨さんが、私から本を受け取り、ページをめくり始めた。私はかいつまんで説明したが、二人とも、耳に入っていないようだった。和彦に希望を与えた最新医学の話も、ここではあまり力を発揮しなかった。
「うちの家族に、何でやろね・・・」
和彦も、馨さんも、同じことを考えていたらしく、「そうやなぁ」と、つぶやく。
「遺伝じゃないやろし、おたふく・・も子どもの時だしねぇ」
誰も、原因らしきものは、思い当たらないようだった。実際、男性不妊は、原因不明の場合がほとんどだという。
「おとん、生きとったら、びっくりしたやろな」
和彦の言葉に、皆頷いた。お義父さんは、十年前に、他界されていた。
まだショック状態の二人に、とにかくどこか、男性不妊科のある病院へ行ってみるつもりだと告げ、私たちは実家を出た。車のドアをバタンと閉めると、体中がヒヤッとした。晩秋の夜が、車内の空気を冷たくしていた。みんな、混乱していた。きっと、天国のお父さんも、混乱していると思った。
角を曲がると私たちの住む団地入り口、というところまで来て和彦が、「B病院に、今から行ってみいひん?」と切り出した。
「今から?一番近いけど、もう遅いよ」
「あそこ、救急やから、行って、男性不妊科があるかどうかだけ、聞こ」
そう言うと、和彦は団地を通り過ぎた。B病院に着くと、入り口に、「救急」の文字が電灯に照らされて見えた。中では、毛布を肩からかけた女の子と、父親らしき男性がベンチに座っていた。こんな時間に、救急患者でもないのに来てしまったことに気後れした。私たちの前を通りかかった警備員に、私は思い切って声を掛けた。
「あの、すみません。ここに、男性不妊科って、ありますか?」
初老の警備員は、一瞬、「は?」という表情を見せたが、直接私たちの顔は見ず、窓口の向こうで、丸く囲むように座っている仲間に尋ねた。皆頭を横に振ったので、彼は、「事務員さんに聞いてあげるから。ここで待っといて」と言い残し、奥へ入っていった。しばらくして、和彦と、そう歳の変わらないくらいの男性がやってきた。今度は、和彦が一歩前に出て尋ねた。
「こちらに、男性不妊科はありますか?」
事務員の男性は、まるでちょっと昔のことを思い出すかのように、額に手を当てて、「男性不妊科・・・は、うーん、こちらには、ないですねぇ」と答えた。「申し訳ないですね」と、本当に、すまなさそうな顔をして、私たちが帰るのを見送ってくれた。
気のせいか、警備の方も、事務員の方も、私たちとあまり目線を合わせないようにしていたように思った。
「なんか、男性不妊言うたら、皆、やさしくしてくれたような気ぃした。事務員の人も、遅い時間やのに、出てきてくれはったしな」
車を走らせてすぐに、和彦が言った。二人にとって、全く実感のなかった、「男性不妊」という言葉が、唇に乗ったことでにわかに現実味を帯び、私たちの方へやってきた感じがした。二人とも、感じ取っていた。薄っすらとではあったが、同情されたことを。
長い一日だった。なぜか、そんなに涙は出なかった。驚きの方が大きくて、混乱して、頭が回らない、といった状態だった。病院も、どこへ行ったらいいのか、見当もつかない。何を、どうしたらいいのかもわからない。見知らぬところへ放り出されたような気分だった。地図もないし、目印もない。それでも立ち上がって、歩いてゆかねばならない。しかし一体どこへ・・・。
団地の自分たちの部屋へ帰っても、人形の位置ひとつ、変わったわけではない。昨日までと違うのは、私たちだけだ。数ヶ月間つけ続けていた私の基礎体温表は、この日で止まった。11月21日だった。

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